kokoa225の日記

大学生です。日本ではちょっと珍しいファンドレイザーをしています。ブログは、普段の行動とか、自分の考え整理とか、世間の皆様とちょっとだけシェアしたい雑談なんかを書くと思います。よろしくです。

自分のこと その1

どうもブログをご覧の皆さま、お久しぶりです。
長らく更新していなかったこのブログですが、今日は久しぶりの更新です。
今日は自分のことについて書いてみようと思います。
実は、僕はちょっと事情が特殊なので書くのが中々難しいテーマでした。
結果的に結構重い感じになってしまいましたが、「それでも良いよ」と仰ってくださる優しい方は最後までお付き合いくださると嬉しいです。

PS 思ったより文章が長くなりすぎたので、この記事では話の途中までにしました。続きはまた次回更新したいと思います。

 

それでは、下記から本筋です。

僕には眼の病気があります。それは両親から遺伝した網膜の病気です。簡単に言うと、両目の網膜という器官が剥がれかけています。この病気になる人は十何万に一人くらいですが、僕の場合は特に症状がひどく、いつどうなるのか分かりません。

これまで何人も医者に診てもらいましたが、治すことも出来ません。昔、僕を見てくれたお医者さまはお年を召されたベテランの方でしたが、「ここまでひどい状態は見たことがない」と仰っていました。
それがきっかけで僕は自分の夢を諦めました。僕の夢は結婚と家族を持つことでした。僕の家はもともと事情が複雑で幸せな家族だとか、特に誰か一人の女性を幸せにすることへの憧れを作ったのだと思います。だから、高校生くらいまでの僕はいつかその夢を叶えたかったたのだと思います。
スポーツはドクターストップで止められていたので、高校のころは勉強ばかりしていました。何か一つでも出来れば大事な人を守れる
とあまり深く考えずに思っていたからです。僕にとっての転機は二十歳の時でした。
当時の僕は、京都の私立大学に通う大学二年生でした。季節はちょうど今くらいの季節だったと思います。
その転機は自分の病気について詳しく知ったことでした。そして、自分の症状がとても重く、ぎりぎりの所で保っていること。いつ失明してもおかしくなし、この年まで見えてるのが不思議なこと。人に移ること。治すことは出来ないことを知りました。

(ここからは結構重い話です。ご注意ください、)

今にして思えば、病気のことについて知れたことは、幸せなことでもあったと思います。しかし、当時の僕にとっては、それはただただ、辛いことでした。ふとしたきっかけで失明するかも知れない、そしてそのきっかけになるのは、空き缶がぶつかるだけでも、道で人にぶつかるだけでも十分なこと。僕はそれまで当たり前にできていた道を歩くことが怖くて仕方ありませんでした。次に夜に眠れなくなりました。瞼を閉じてそのまま見えなくなったらどうしよう?

眼を開けても夜の暗闇が見えるだけで、不安で朝が来るまで眠れない。そうやって、何度も何度もそんな日を繰り返していくうちに、自分が分からなくなりました。眼のことを考えなくて済むように起きている間はずっとお酒を飲んで、一日のうちに起きている時間と眠っている時間の区別もつかなくなっていきました。お酒を飲んでる時は、ぼーっとした頭で色々なことを考えました。
あれだけ欲しいと思っていた家族を手に入れても不幸にしかしてあげられないこと、自分の将来に文字通りの明かりがないこと、眼が見えなくなったら、年老いた親に抱えられないほどの苦労をかけてしまうこと、親のことを思えば自分はいない方が良いとか、そのどれもが心の深くまで刺さって心臓を踏みつぶされるように苦しいと思いました。

そんな日々を三か月くらい続けたある日、僕はとうとう心が折れました、いや折れたというよりも糸がすり減って千切れた感じでした。そうなると自分の意思に関係なく、身近な刃物に手が伸びていました。その時も生きたいとは思っていました。

出来るなら、何の不安もなく、明日を生きて、そして夜になったらゆっくり眠りたい、皆と同じように。他に何もいらない、ただ普通に生きたい」と思いました。だけどもう、どうあがいても希望が見つけられない、「諦めるな」とか「死んだら終わりだ」とか、頭の中で使い古された言葉が反響していたけど、そんなことは、きっとこれまでの人生が幸せで、明日にも無邪気に希望を持てる幸せな人たちなのだと思います。
この時のことはよく覚えています。僕は自分の部屋で包丁を右手に持って、自分の手首をじっと見つめていました。気づけば、二時間以上、経過していました。何を考えていたというわけではないのですが、ただ自分の人生を振り返っていました。そして、結局、僕は自分の身体に傷一つ付けられませんでした。なんというか、納得が出来なかったからです。これまでずっと苦しんで、そこから這い上がろうと必死だったのに、神様とか偶然とかそんなよくわからないものに自分の人生の最期を決められることに無性に腹が立ってそして悲しいと思いました。
だから「自分が味わったこの苦しさとか辛さとかそんな気持ちをほかの人が味あわないようにしよう」。半ば強がり、半ばすがるような気持ちでそう決
めました。そう思うと、僕はとある人にメールをしました。その人はあるコーヒーチェーンの社長さんで、いつか見た講演会でとても良いスピーチをされていたことを思い出したからです。単なる思い付きでしたが、僕はその人にこう尋ねました。
「僕は病気で、いつどうなるのか分かりません。だけど、最後に人の役に立つことをしたいと思います。しかし、僕はこれまでずっと自分のためにしか生きて来ませんでした。だからどうすれば人の役に立てるのかが分かりません。あなたは講演会で僕の胸を打つ素晴らしい講演をしてくださいました。だからどうか教えてください。僕はどうすれば、人の役に立てるでしょうか?」
そう尋ねると、その方はすぐにこう返事をくださいました。
「私に出来ることならなんでもしよう。することを僕が教えてあげることは出来ないけど、見つけるためのヒントを教えてあげよう。それは「人の役に立つこと」、「自分の得意なこと」、「好きだと思えること」、この三つに当てはまることだ。
その答えが分かったら、僕に会いに来るといい。返事を待ってるよ。」僕はその言葉を見たときに泣き崩れてしまいました。
見ず知らずの僕になぜこうも優しくしてくれるのか、ただの面倒なガキに過ぎない自分の言葉を何故、信じてくれるのか分かりませんでした。後になって考えてみれば、あの時、僕は自分を信じて欲しかったのだと思います。自分を信じて待っていてくれる人がいる、期待して、気にかけて、自分を見てくれている。そう思えることが自分の冷たい心にもう一度、火をともしてくれた。だから、僕は単なる強がりでしかなかった「人の役に立ちたい」という言葉を残りの人生をかけて果たそうと決めました。そうすることが、その人の気持ちに応えることだと思ったからです。
そこからはその答えを出すために。家のお酒を全部捨ててずっと歩きました。一日10数キロ、ある夜は、50数キロ歩いたりもしました。
当時は運動不足だから始めたのですが 運動している時は考えることに集中できたからです(後から知ったのですが、こういうのは歩行膳というそうです。)そうやってちょっとずつ自分の価値観を育てていきました。
横道にそれてしまいますが、その考え方を聞いてください。
僕はずっと何故自分が生きるのかが分かりませんでした。それが恩人と出会って変わったわけですが、それはきっと、僕がその人から「人生の目的は残すこと」だと教えてもらったからだと思います。残すことは、きっと普通の人にとっては家族を持ったり、子供を作ったりすることだと思います。だけど、僕にはそうすることが出来ません。人の望む平凡な生き方が出来ない、どんなに願っても明るい明日がこないかもしれない、それが僕の悩みの根っこの部分でした。だけど僕にだって何かを残すことが出来ます。例えば今ある社会の問題を一つ減らせたら、それはこれまで僕が出会ってきた人やその子供にもっと良い社会を贈ってあげる事だと思います。その先に今よりも良い未来があるのなら、僕の人 生だってきっと無意味じゃありません。自分の未来に希望がなくても、誰かに希望を託すことができたら僕の希望もきっと無くならない。人はそうやって次の世代のことを信じて、何度も何度も自分の想いのバトンを引き継いで現代まできたのだと思います。僕の人生でそのバトンを渡してくれたのはその恩人でした。だから僕はその人の気持ちを引きついで、また別の誰かにバトンを渡したい、そう思いました。自分はこれまで人よりたくさんのものをなくしてきた気もするし、それはもう取り戻せない気もします。だけど、そうやって自分のバトンを渡した人、自分じゃない他の誰かには、自分が掴めなかった幸せを掴んでほしい、そう思います。

それから僕は自分が取り組む課題を求めて一年間、NPOで働きました。そして、そこで自分が取り組みたいと思える課題を見つけました。

冒頭に書いた通り、長くなりすぎたのでこの続きは次回にかいてみたいと思います。
ここまでお付き合いくださった方、長い話ににもかかわらず、本当にありがとうございました。